―――二条城 白の廊下
けたたましく足音を鳴らしながら、一人の幕臣が周囲の者を跳ね除け、
高い位にいる者なのであろう、
黒地に金糸で装飾を施された衣に身を包んだ男に声をかける。
「井伊様!ここにおられましたか」
声をかけながらも、振り返った井伊直弼の眼光に、
幕臣は一瞬たじろぐも意を決して報告をし始める。
「件の
井伊の片眼がすうっと細められる。
眉目秀麗と言ってよい顔立ちだが、それ故に片目を覆った眼帯が凄みを増して見える。
そしてその声は冷たさと熱さで鍛えられた、鋼の声。
「我の指示は、
「はっ、ですが……」
「我の前に二度と顔を見せるな。この程度の事も出来ぬ者など、
我の旗下に、慶喜様には不要」
蒼ざめる幕臣に背を向け、顧みることもなく歩み出す井伊。
「い、井伊様っ!お待ちを!」
「くどい」
他の幕臣にひきずられ、遠のいていく声。
だが、井伊の表情は何一つ変わらない。
井伊の、徳川幕府大老の行く先、幕臣たちが頭を下げ、行く先を阻む者はいない。
進むにつれ幕臣の数は減り、静けさが増していく。
騒音と入れ代わるように、たった一つ、小さく柔らかな歌声が聞こえてくる。
歌声が、ぴたりと止んだ。
「直弼か」
襖の向こうから聞こえた少年の声に、ほんの一瞬ではあるが井伊の口元がほころぶ。
「井伊直弼、参上仕りました」
「待っておったぞ!」
絢爛豪華な部屋に、たった一人の少年。
一人には大きすぎる部屋を横切り、慶喜が井伊へ駆け寄ってくる。
「今日はどんな話をしてくれる?楽しみにしておったぞ」
「もったいないお言葉。直弼も嬉しく存じます。それでは、昨日の事ですが……」
目を輝かせる慶喜に、市井での話、異国の話、学問の話などを楽しそうに語る井伊。
ふと、慶喜が目を伏せる。
「慶喜様、どうなされました?」
「
「
慶喜の問いに、少し困ったような表情を浮かべる井伊。その表情を見て、
さらに不安になったのか、ぎゅっと自分の体を抱きしめ、小さく言葉を絞り出す。
「うん。ここにおっても、噂は聞こえてくる。
とりわけ、坂本とその一党は何やら不可思議な歌で人々を魅了すると聞く。
あの男の歌に心震わされ、目覚める
現れるかもしれない。それが予は恐ろしい。予は坂本たちの力が恐ろしい」
震える慶喜に、井伊が微笑みかける。
「ではこうしましょう、慶喜様。
坂本達をこちらに取り込み、慶喜様の良いように使えるようにしましょう」
伏した顔を上げた慶喜の顔は、目を丸くし、嬉しい事が起きたが理解しきれていない
子供の顔をしている。一瞬の間を置き、期待に眼が輝き始める。
「そんなことが出来るのか?」
「はい。すでに策は練っております」
満面に笑みを浮かべ、派手な勢いで慶喜は井伊に抱きつく。
「それはいいな。これで予はやっと安心出来る!坂本が予の味方になる!
なんて素晴らしいんだ」
「慶喜様、どうかご安心を」
「うん、うん。直弼の手は暖かだな」
優しく受け止めた井伊の手は、慶喜の背中を優しく撫でている。
それは慶喜に許されたたった一つのぬくもり。
慶喜は眼を細めて頷いた。